>> これを特産黒大豆献納の始めとす

黒豆の館から、丹南篠山口インターチェンジ方面へ車を5分ほど走らすと、川北という集落がある。ここが黒豆の原産地と言われ、現在も丹波の中でも優れた黒豆を産出している。
「多紀郡誌」(1918)に「黒大豆ノ原産地ハ南河内村(旧の西紀町)川北ノ一部ニシテ今ヲ距ルコト約百六十年前領主青山家ニ於テ郡内農産貢者中特ニ黒大豆ノ優秀ナル賞揚シ庄屋ニ命ジテ特選黒大豆ヲ納入セシメ更ニ青山家ニ於テ精選シ之ヲ幕府ニ献納セラリタリ。是レヲ特産黒大豆献納ノ始メトス」と記載されているように、江戸時代中期には、川北の地で優秀な黒豆が作られていたことになる。
いつ頃から栽培されていたかについての記録はないが、川北には次のような民話が語り継がれている。
昔、旅の僧が訪れ、病気で苦しんでいるのを見て庄屋が家で療養させていた。ところがその年は大干ばつで、村人は「よそ者を村に入れたから悪いことが起こったのだ」と旅の僧侶を追い出そうとし、白大豆を黒く炒り「この豆を植えて芽が出たら置いてやろう」という難題をもちかけた。僧は念仏を唱えて一粒まくと、不思議なことに芽が出て、黒い豆が実った。村人は非礼を詫びて、以後、その豆を大事に栽培し続けた。これは民話ながら、一方で次のような事実もある。
川北地区はかつて地勢的に水の便の悪い所で、稲作用の水の確保には大変苦労した。そして、年貢の取り立ても厳しく「このままでは共倒れになる」として考えたのが「坪堀り」と呼ばれた村の田んぼの内、稲を作付けしない所を話し合いで決めて畑にする方法。ここからは想像になるが、この畑に豆が植えられたのではないだろうか。
皮肉なことに近年では、減反、転作のために黒豆を植えるほ場が決められていることが多い。現在の川北では「川北黒大豆生産組合」を30軒の農家で組織し、地域ぐるみで黒豆の栽培に取り組んでいる。
さて、その川北黒大豆が花のお江戸で評判になってからしばらくして、江戸末期、篠山町の東部で優良な黒大豆の種が作られた。川北黒大豆に対してその名を「波部黒」という。この波部黒は宮内庁お買い上げにもなり、双方の名声が高まるにつれ、2つの名称があることに支障がでてきた。そこで、昭和9年、多紀郡の農会の斡旋で「丹波黒大豆生産出荷組合」を組織して名称も「丹波黒大豆」に統一したのである。
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